郡上藩凌霜隊と会津藩白虎隊

郡上凌霜隊のあらまし
1、凌霜隊とは  
 今から凡そ120余年前、明治元年の春、鳥羽、伏見の戦いで、徳川幕府が官軍に破れ、 天下が官軍の手に渡されようとしていた時のことであります。 郡上藩主、青山幸宜公は、14才のため、実際の政治は国家老の鈴木平左衛門や、江戸詰家老の 朝日奈藤兵衛によって行われておりました。この人達は、4万8千石の小さな郡上藩を無事に守り続けるために、長い間恩恵を受けてきた徳川幕府を最後まで助けるか、官軍に従うかということで苦しみ考えに考えた。そこでようやく考え出されたのは、表向きは官軍に味方をし、裏面ではこっそり徳川幕府を助けようという困りきったあげくの策でありました。こうして、ひそかに会津へ出陣を命じられたのが、凌霜隊であります。

2、凌霜隊士について
 隊長、朝比奈茂吉は当時17才の少年で、郡上藩江戸詰家老、朝比奈藤兵衛の長男であります。 副隊長の坂田林左衛門(坂田茂平次通貫−新心流居合術7代)、参謀長の速水小三郎を中心に江戸詰の藩士、並びに、郡上藩士合わせて、40数名その名も凌霜隊と名のり、会津をめざして出発したのであります。

3、会津への道
 途中、小山宿、塩原等で交戦しました。特に塩原では宿舎である、和泉屋、丸屋を残し、更に妙雲寺を戦火より守り、現在もそのお陰で、妙雲寺は立派に残されております。

4、 会津の合戦
 その後、会津若松城の守りに、白虎隊と組んで戦い続けましたが、衆か敵せず、ついに若松城に降参の幟が立てられたのであります。

5、揚屋(牢屋)のくらし 残り凌霜隊の勇士30余名は、罪人として旧郡上藩へ預けられ、東殿山のふもと赤谷村の揚屋 (牢屋)にとじこめられたのであります。

6、開かれた道
 苦しい揚屋のくらしから、郡内の寺々の僧侶により助けられて、長敬寺へ預けられたのであります。 その後、明治3年の3月赦免(罪人でなくなるゆるし)が言いわたされたのであります。 江戸を出発してから約2年間、隊士たちは、それぞれ懐かしい家路へと向かったのであります。



辞世の句) 真心の赤き心の仇となり 何ぞはかかる憂き目みるらん   
                                    速水行道



                      平成3年 8月 郡上藩凌霜隊顕彰会より